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中村洋子の歩みと現在

美術家としてのキャリアを陶芸から出発した中村洋子は、始点において既に逸脱を指向していた。それから40年以上を経て、21世紀もまもなく20年を迎える現在、結果的にいえば、中村は、近代陶芸というジャンルが、工芸的であることへの従属から未だに逃れられないことに早々に見切りをつけていたといっていいのではないだろうか。

職人としての手ほどきを受けたわけではない中村の陶芸に対する造形は審美的で、陶土という素材に自由を与え、重力から開放させるような、空や雲をイメージする抽象的な作風だった。それが、職人的であるべき、実用的であるべき、またおそらくそこには男性的であるべきといった陶芸家というものの古風な流儀に反発をおこし、別の何かにむかう契機を与えたことは想像に難くない。自身が美術家であることを自覚した中村は、目指すべき道を現代美術に求めていった。

現在の現代美術は歴史と批評が積み重ねられ、理論だった作品を戦略的に発表する知的ゲームの傾向が強いが、日本の現代美術は国内に既存する美術と美術制度への対抗から生まれてきた。それはたとえば具体美術宣言にもあらわれている。たとえば初期の具体美術協会を代表する田中敦子(1932~2005年)が1954年に発表した「ピンクの人絹」は、10m四方のピンク色の人絹(人造絹糸:レーヨン)を屋外の地面から30cmの高さに設置した作品である。そこには理論や美術的関心はなく、何よりも鑑賞者を振り向かせ、驚かせてやろうという田中の野心が先行していた。そして風に吹かれて軽やかに、ときに激しく揺れる布地の特性を生かしたキネティックな作品が衝撃を与えたことは想像に難くない。

男性よりも女性の美術家の割合が少ないという意味において、女流という枠組みで語ることはその実績をともすると矮小化してしまうおそれもあるが、あえて例をあげるならば、ソフトスカルプチャーや無限の連続性を世界で初めて現代美術表現として意識的に取り入れ、本場ニューヨークで活動した草間彌生や、桂ゆき、宮脇愛子、中谷芙二子など、意外性や目新しさをもった表現を効果的に用いて、独自の感性を可視化していったトップアーティストたちの一群が日本の20世紀美術史には燦然と輝いている。

中村もこの流れのなかにいる作家といっていい。中村は作陶の面白さよりも、ものを焼く行為から生まれる変化そのものに注目し、思考錯誤を繰り返し、陶土とともに金網を焼き、焼失と残存の過程と記憶を自身の表現に組み入れていった。マチエールの意外さと先進性は、人工による開発と自然による還元が一体化した都市型社会の長い呼吸を想起させるが、前述の田中同様に、鑑賞者の目をひく作品とは何か、を探求した結果である。

そして中村は展示空間からの開放を目指すことになる。言い換えれば、自己の表現をより広い空間にむかって開放していくのだ。野外彫刻というアプローチは、中村にとってごく自然な選択肢となる。彫刻というジャンルである必要はまったくなかった。野外という自然環境のなかで、気温や湿度、天候の変化など様々な事態を乗り越え、変化の中で不変を保つ芸術の存在そのものが、作品と社会の関わりを伝える手段として、難しくも価値ある挑戦となったのではないだろうか。

中村にとって重力はひとつのテーマといっていい。それは逃れられない不可視の圧力でもあり、常に隣り合って存在する万物の伴侶である。ありきたりの陶芸作品からの脱却を図るために使用していた、一般的な建築素材である金属網が、ここでは作家の意思を表現する格好の道具となった。金属であることの重量を感じさせる堅牢な素材に、中村は波、風、雲、といったうつろいたゆたう自然の姿を与え、重くもあり軽くもある、固くもあり柔らかくもあるといった二律背反を可視化してみせた。その功績は、近代美術に拮抗する形でうまれた20世紀の日本の現代美術に対する、ひとつの回答といってもいいのではないだろうか。否定や肯定で割り切らず、矛盾するものが同時に存在することを認める中村の作品には、現代的な問題の提示と解決がなされているようである。陶芸をはじめた頃から一貫してあらわれる雲のイメージは、とらえどころのないものをとらえることが人間の崇高な使命であると宣言しているかのようでもある。中村の作品からは、これからの21世紀社会に必要な気づきを与えてくれることが期待される。

癸生川 栄 (eitoeiko)

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